草軽電鉄の創業は、スイスの登山電車のように高原の避暑地へ、又、草津温泉へと旅客を導くというアイデアに端を発し、さまざまな努力によって会社設立へこぎつけました。明治45年2月草津軽便鉄道株式会社発起人一同による「創立の趣旨」の中には次のように書かれています。
「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資するところあらんとする。」
大正14年草軽電気鉄道と社名を変更。
大正15年9月、軽井沢〜草津間、全長55.5kmが全線開通し、『四千尺高原の遊覧列車』をキャッチフレーズに草軽電鉄は活気にあふれた時代を迎えました。そして、多くの文士や著名人が軽井沢、草津を訪れました。
湯治客や避暑客を乗せて走った草軽の電車はその後、戦時下、戦地へ赴く出征兵士達を運ぶようになります。
明治42年(1909) | 2月23日 | 明草津興業株式会社発起人、長森藤吉を設立委員長として黒岩忠四郎、山本与平次、市川善三郎、中沢市郎次、湯本柳三郎、黒岩誠一郎ほか各委員、軽便軌条敷設特許を内閣総理大臣宛に申請する。 |
43年(1910) | 4月30日 | 軽便軌条敷設特許される。 |
大正 1年(1912) | 9月17日 | 草津軽便鉄道株式会社と社名を変更する。 |
9月28日 | 東京市京橋区日吉町番地帝国鉄道協会において、創立総会を開催する。発起人は永松達吾(創立委員総代)ほか21名、取締役に吉岡哲太郎(初代代表取締役・取締役社長)ほか6名。監査役に大沢惣蔵ほか1名が選任される。資本金70万円。 | |
10月6日 | 東京市芝区南佐久間町1丁目3番地に、本店を設置する。 | |
10月9日 | 東京区裁判所に設立登記をなす。 | |
2年(1913) | 1月31日 | 第一回定時株主総会を開催し、大正1年9月28日から同12月31日までの賃借対照表ほか原案可決する。 |
11月25日 | 新軽井沢起点において起工式を挙工。工事に着手する。 | |
4年(1915) | 7月22日 | 新軽井沢―小瀬温泉間9.985kmが開通。蒸気機関車、二等客車、三等客車、無蓋貨車、有蓋貨車各二輌をもって営業を開始する。 |
6年(1917) | 7月19日 | 小瀬温泉―吾妻間18.336kmの営業を開始する。 |
8年(1919) | 11月7日 | 吾妻―嬬恋間8.4kmの営業を開始する。 |
13年(1924) | 11月1日 | 新軽井沢―嬬恋間36.799kmが、電化開通する。 |
15年(1926) | 8月15日 | 嬬恋―草津前口間11.824kmの営業を開始する。これにより、新軽井沢―草津温泉間55.5km全線開通する。 |
昭和20年(1945) | 4月1日 | 東京急行電鉄株式会社の傘下会社となる。 |
24年(1949) | 9月1日 | キティ台風により、沿線各所線路崩壊など多大の被害を被る。 |
10月7日 | 臨時株主総会を開催し、営業不振のため新軽井沢―上州三原間37.9kmの運輸営業廃止の決議をなす。 | |
10月26日 | 運輸大臣宛に新軽井沢―上州三原間の鉄道廃止許可申請をなす。 | |
25年(1950) | 8月4日 | ヘリン台風により吾妻川氾濫し、橋梁流失など、その他各所に会社創立以来の被害を被る。 |
日本最初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」の撮影が、千ガ滝地帯を背景に行われる。 | ||
34年(1959) | 8月14日 | 第7号台風により、再び吾妻川橋梁流失、軽井沢自動車車庫全潰など甚大な被害を被る。吾妻川橋梁流失により、嬬恋―上州三原間はバス連絡を行った。 |
11月13日 | 新軽井沢―上州三原間の鉄道営業廃止が許可される。 | |
35年(1960) | 4月25日 | 新軽井沢―上州三原間の鉄道営業を廃止する。 |
4月27日 | 新軽井沢―上州三原間、鉄道施設撤去工事に着手する。 | |
36年(1961) | 3月24日 | 上州三原間―草津温泉間17.6kmを自動車輸送に転換すべく、運輸大臣宛に鉄道営業廃止許可を申請する。 |
5月4日 | 浅間山麓長野原町有地観光開発契約を長野原町・草軽電気鉄道・東京急行電鉄・東急観光の四者で締結する。 | |
12月19日 | 同間供用開始する。 | |
12月22日 | 上州三原―草津温泉間の鉄道営業廃止が許可される。 | |
37年(1962) | 1月31日 | 同間廃止を実施する。 |
5月10日 | 同間撤去工事、完了する。 |