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草軽電鉄Web博物館 History

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小さな高原列車の歴史探検へ。 創業時代から廃線まで47年の軌跡(1915-1962)

創業期(明治〜大正)

草軽電鉄の創業は、スイスの登山電車のように高原の避暑地へ、又、草津温泉へと旅客を導くというアイデアに端を発し、さまざまな努力によって会社設立へこぎつけました。明治45年2月草津軽便鉄道株式会社発起人一同による「創立の趣旨」の中には次のように書かれています。

「本鉄道は、一面草津その他沿線の旅客を目的とするとともに、草津方面に出入する物資及び長野原・嬬恋・吾妻牧場付近より積み出す木材・薪炭・その他貨物輸送のため」「この地方の発展に資するところあらんとする。」

全盛期(大正〜昭和20年代)

大正14年草軽電気鉄道と社名を変更。
大正15年9月、軽井沢〜草津間、全長55.5kmが全線開通し、『四千尺高原の遊覧列車』をキャッチフレーズに草軽電鉄は活気にあふれた時代を迎えました。そして、多くの文士や著名人が軽井沢、草津を訪れました。
湯治客や避暑客を乗せて走った草軽の電車はその後、戦時下、戦地へ赴く出征兵士達を運ぶようになります。

柳川鉄橋を渡る蒸気機関車1号
小瀬温泉ー長日向間の柳川鉄橋を渡る蒸気機関車1号(大正6年)資料拡大
急カーブを走るデキ12型
急カーブを走るデキ12型。カーブにさしかかると、電車は「キーン、キーン」とレールをきしませる。資料拡大
>昭和21年の夏、旧軽-三笠間にて。
昭和21年の夏、旧軽-三笠間にて。女性の車掌が乗務している。人々の表情も明るい。資料拡大

廃線、47年の歴史に幕。(〜昭和37年)

草軽電鉄の最後を飾ったデキ12型とホハ30型客車。現在機関車のみ軽井沢駅前(北口)に展示されている。
終戦直後の昭和21年3月、草軽電鉄はピークの46万人という乗客を記録しました。
しかし翌月、国鉄長野原線が上越線渋川〜長野原間の旅客営業を始めます。乗客は減り始め、あいつぐ台風の被害が追い討ちをかけました。
昭和35年、草軽鉄道の乗客は、全盛期の約8分の1の5万6千人に激減、惜しまれながら昭和37年廃線となり、47年間の歴史に幕を下ろしました。
そして草軽鉄道廃止後、その思いは草軽交通へと引き継がれ、現在は高原を走るバスと姿を変えて、多くのお客様に利用されております。

年表(1909〜1962)

明治42年(1909) 2月23日 明草津興業株式会社発起人、長森藤吉を設立委員長として黒岩忠四郎、山本与平次、市川善三郎、中沢市郎次、湯本柳三郎、黒岩誠一郎ほか各委員、軽便軌条敷設特許を内閣総理大臣宛に申請する。
  43年(1910) 4月30日 軽便軌条敷設特許される。
大正 1年(1912) 9月17日 草津軽便鉄道株式会社と社名を変更する。
           9月28日 東京市京橋区日吉町番地帝国鉄道協会において、創立総会を開催する。発起人は永松達吾(創立委員総代)ほか21名、取締役に吉岡哲太郎(初代代表取締役・取締役社長)ほか6名。監査役に大沢惣蔵ほか1名が選任される。資本金70万円。
           10月6日 東京市芝区南佐久間町1丁目3番地に、本店を設置する。
           10月9日 東京区裁判所に設立登記をなす。
2年(1913) 1月31日 第一回定時株主総会を開催し、大正1年9月28日から同12月31日までの賃借対照表ほか原案可決する。
           11月25日 新軽井沢起点において起工式を挙工。工事に着手する。
4年(1915) 7月22日 新軽井沢―小瀬温泉間9.985kmが開通。蒸気機関車、二等客車、三等客車、無蓋貨車、有蓋貨車各二輌をもって営業を開始する。
6年(1917) 7月19日 小瀬温泉―吾妻間18.336kmの営業を開始する。
8年(1919) 11月7日 吾妻―嬬恋間8.4kmの営業を開始する。
13年(1924) 11月1日 新軽井沢―嬬恋間36.799kmが、電化開通する。
15年(1926) 8月15日 嬬恋―草津前口間11.824kmの営業を開始する。これにより、新軽井沢―草津温泉間55.5km全線開通する。
昭和20年(1945) 4月1日 東京急行電鉄株式会社の傘下会社となる。
24年(1949) 9月1日 キティ台風により、沿線各所線路崩壊など多大の被害を被る。
           10月7日 臨時株主総会を開催し、営業不振のため新軽井沢―上州三原間37.9kmの運輸営業廃止の決議をなす。
           10月26日 運輸大臣宛に新軽井沢―上州三原間の鉄道廃止許可申請をなす。
25年(1950) 8月4日 ヘリン台風により吾妻川氾濫し、橋梁流失など、その他各所に会社創立以来の被害を被る。
     日本最初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」の撮影が、千ガ滝地帯を背景に行われる。
34年(1959) 8月14日 第7号台風により、再び吾妻川橋梁流失、軽井沢自動車車庫全潰など甚大な被害を被る。吾妻川橋梁流失により、嬬恋―上州三原間はバス連絡を行った。
           11月13日 新軽井沢―上州三原間の鉄道営業廃止が許可される。
35年(1960) 4月25日 新軽井沢―上州三原間の鉄道営業を廃止する。
           4月27日 新軽井沢―上州三原間、鉄道施設撤去工事に着手する。
36年(1961) 3月24日 上州三原間―草津温泉間17.6kmを自動車輸送に転換すべく、運輸大臣宛に鉄道営業廃止許可を申請する。
           5月4日 浅間山麓長野原町有地観光開発契約を長野原町・草軽電気鉄道・東京急行電鉄・東急観光の四者で締結する。
           12月19日 同間供用開始する。
           12月22日 上州三原―草津温泉間の鉄道営業廃止が許可される。
37年(1962) 1月31日 同間廃止を実施する。
           5月10日 同間撤去工事、完了する。